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2008年3月 4日 (火)

「人生に必要なものは・・・」ーチャールズ・チャップリン

人生に必要なものは
希望と
勇気と
幾ばくかのお金(some money)だ。

チャールズ・チャップリン

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チャールズ・チャップリン
1889年4月16日― 1977年12月25日(88歳)
映画『独裁者』のモデルとなったアドルフ・ヒトラーと誕生年月が同じ1889年4月である(チャップリンの方が4日早い)。

ミュージック・ホールの芸人だった両親のもとに、ロンドンに生まれる。1歳の時に両親は離婚。その11年後、父チャールズ・チャップリンはアルコール中毒によって死去し、母ハンナ・ヒルも貧困からくる精神病にかかる。4歳違いの異父兄シドニーと、孤児院や貧民院を転々とする。チャーリー自身も、幼い頃から新聞やマーケットの売り子、ミュージック・ホールでパントマイム劇などを演じて一家の家計を支える。
その後、アメリカに渡り、喜劇役者として成功。喜劇王と呼ばれた。
1952年に、アメリカの赤狩りで国外に事実上の追放処分を受けた。
チャップリンが再びアメリカの地を踏むのは、同地を去って20年後の1972年、彼を守りきれなかったアメリカ映画界からの事実上の謝罪を意味するアカデミー賞特別名誉賞を手にしたときであった。
1975年には、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され“サー・チャールズ”となった。

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ガンディー(前列右から2人目)とチャップリン(前列左から2人目)1931年9月、ロンドンにて

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『キッド』のワンシーン

1930年代よりナチスの指導者且つ独裁者であったアドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に公開された『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判しているが、『独裁者』製作時のアメリカは第二次世界大戦に参戦しておらず、ファシズム色むき出しにして自国内における独裁を強めるだけでなく、ユダヤ人への弾圧の強化やチェコスロバキアやオーストリアの併合、更にイギリスやフランスなどの隣国へ軍事的脅威を与えながらイギリスの同盟国であるアメリカとも対決する姿勢を見せ始めていたヒトラーに対してさえ、「大恐慌を克服した英雄」、「共産主義の防波堤」として賞賛する者もいたほどで、ニューヨークにあったアメリカ・ナチス党から製作を止めるようクレームをつけられたこともある。  
このような風潮の中で、ヒトラーを痛烈に風刺する映画を製作したチャプリンの、自由を尊び個人の尊厳を愛する、人間に対する慧眼、考え方は驚くほかは無い。
『独裁者』でチャップリンは、初めて本格的なトーキーを完成させた。それは、最後にヒンケルに扮した理容師が6分間の演説をする為だった、と言われる。 この演説は、映画史に残る感動的なシーンになった。
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「兵士諸君、自由のために戦いなさい。民主主義の名のもとに私たちはその力を使いましょう」「人びとよ、失望してはならない。大衆は再び権力を取り戻し、自由は決して失われない」。 そして彼は訴える。「ハンナ、聞こえるかい」。恋人の洗濯娘ハンナ(チャップリンの当時の妻ポーレット・ゴダードが演じた)に訴えかける理容師。その言葉は、チャップリンの言葉そのものであった。
「ハンナ」とは、貧困のうちに精神病を病み亡くなったチャップリンの母親の名前でもある。

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 日本でこの映画が公開されたのは、1960年になってからだった。映画の完成時の1940年は、日本はドイツ・イタリアとのファシズム三国同盟を結んでいたから、公開などとんでもない時代だった。
 20年後の公開だったが、映画は圧倒的な人気で、東京・有楽座には一週間で6万人を越える観客が訪れ、37日連続して当時のお金で100万円以上の興業収益をあげ、過去最高の記録となった。

チャプリンは、音楽の譜面の読み書きはできなかったが、思いついたメロディをピアノで弾いたり、時にはチェロやヴァイオリンを奏でて(左利きだったので、特注品を愛用していた)口ずさみ、アレンジャーの手を借りながら写譜していた。指揮をする姿を記録した映像もいくつか残されている。
チャップリンが作曲した楽曲としては、“スマイル”(『モダン・タイムス』)や“テリーのテーマ”(『ライムライト』)が有名。プッチーニのアリアにも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、1954年に歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌によって大ヒットし、その後もマイケル・ジャクソンやエルヴィス・コステロらによって断続的にカヴァーされた。
1972年、20年ぶりにアメリカへ招かれ、アカデミー賞特別名誉賞(オスカー像)を得たときは、会場のゲスト全員でこの歌が歌われ、チャーリーの栄光と功績が讃えられた。
また、『モダン・タイムス』の劇中において彼が歌ったデタラメ語による“ティティーナ”は、ロサンゼルスのラッパー、J-Fiveによってサンプリングされ、ラップでも歌われた。同曲はトヨタ・istのCMソングとなり、大きな話題を呼んだ。

運転手(後にマネージャー)に日本人、高野虎市を採用し、家の使用人が一時期すべて日本人で占められていた。2番目の夫人であるリタ・グレイは、この様子を「まるで日本人の中で暮らしているかのよう」と評した。また、『サーカス』の製作中にはしばらくの間、牛原虚彦が高野の紹介で弟子入りしていた。

1932年(昭和7年)5月14日に初来日。その道中で五・一五事件に遭遇し(犬養毅との面会予定をキャンセルし、チャップリンは相撲を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかったが、標的として狙われていた。
1936年(昭和11年)2月に2度目の来日。淀川長治が神戸で面会している。
同年5月には、3番目の妻ポーレット・ゴダードとの新婚旅行も兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。また、京都にも足を運び、最高級旅館の柊家旅館に宿泊。名所旧跡を訪ね、西陣で絹のガウンを購入した。
戦後は1961年(昭和36年)にウーナ夫人、長女のジェラルディン、長男のマイケル・チャップリンとともに4度目の来日。高度成長下で変貌著しい東京の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て「古きよき日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。

手塚治虫は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」という質問に対して決まって次のように答えている。 「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれに全ての答えがある」

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代表作
1923年『巴里の女性』(監督のみ。主演=エドナ・パーヴァイアンス)
1925年『黄金狂時代』The Gold Rush
1928年『サーカス』The Circus
1931年『街の灯』City Lights
1936年『モダン・タイムス』Modern Times
1940年『独裁者』The Great Dictator
1947年『殺人狂時代』Monsieur Verdoux
1952年『ライムライト』Limelight
1957年『ニューヨークの王様』A King in New York
1967年『伯爵夫人』A Countess from Hong Kong (監督のみ。唯一のカラー作品。主演=ソフィア・ローレン、マーロン・ブランド)

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