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2008年3月

2008年3月25日 (火)

家康公遺訓

人の一生は、
重荷を負うて遠き道を行くが如し、
急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なし、
心に望み起らば、困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基(もと)い。
怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて、
負けることを知らざれば、
害その身に至る。
己を責めて人を責めるな、
及ばざるは、過ぎたるより勝れり。

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徳川家康が残したとされる言葉であるが、実際は明治になって
纏(まと)められたものである。

家康は、6歳の時、織田に人質に出されて以来、青年期を今川で人質として過ごした。今川氏滅亡後も、実質上、信長と主従の関係になり、忍従の人生を送った。 信長が不慮の死を遂げた時、天下を取るチャンスもあったと思われるが、素早く光秀を討った秀吉に天下をさらわれる。 じっと、耐えに耐えて、最後に天下を掌握した家康の人生哲学が、家康公遺訓としてよく表れている。
若い時に読んで成程と思い、人生経験を重ねると益々、その語句の一つ一つの重さを知らされる人生訓である。

家康が天下を取ったのにはその生まれ合わせと、当時としては極めて長命であった幸運にもあった。

織田信長 
1534年6月23日―1582年6月21日  47歳11ヶ月
(家康は信長より9歳若かった。)

豊臣秀吉    
1537年3月26日―1598年9月18日 61歳5ヶ月
(家康は秀吉より6歳若かった。)

徳川家康    73歳4ヶ月
1543年1月31日―1616年6月1日

信長は天下統一目前の48歳で非業の死を遂げた。
もしも更に25年、家康と同じ73歳まで生きていたら、
どんな日本を作っていたか、恐ろしいほどである。

秀吉が北条征伐(1590年7月)をして天下を統一した半年後の1591年2月に、秀吉の優れた参謀であり、諸侯に人望があり、政権の纏(まと)め役でもあった弟・秀長(1540-1591)が52歳で病死したのは、豊臣政権にとっても不幸であった。 

政権の礎(いしずえ)を築くべき時期に秀吉は大事な支えを失った。 秀長の死後、秀吉に諫言出来る者は無く、朝鮮出兵や千利休切腹(1591年)、甥・豊臣秀次の切腹及び秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣たちの斬首事件(1595年)などの秀吉晩年の乱行が続き、かっての明るく輝くような秀吉の良さは影を潜(ひそ)めた。 北条征伐から僅か8年後に秀吉は死に、彼の死と共に、事実上、豊臣の天下は終わった。

家康は、秀吉が亡くなった時には、朝鮮に出兵しなかった事もあり、財政的に人的にも疲弊せず、当時、随一の大大名になっていた。 

そして秀吉が死んだ後、18年も長生きした。 その間、前田利家、加藤清正や浅野長政、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去している。 大阪夏の陣で秀頼、淀君親子が亡くなった(1615年5月8日)11ヵ月後、後顧の憂いを無くした家康が永眠している。

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「三方原戦役像」
三方原にて武田軍に敗れた(1572年12月22日)後に描かせた肖像画で家康は、之を身近において、自己への戒めとした。 武田信玄は家康が崇拝した武将の一人であったと言われる。

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2008年3月18日 (火)

タフでなければ生きて行けない。優しくなければ・・・

「タフでなければ生きて行けない。優しくなければ生きている資格がない」
If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

米国の作家、レイモンド・チャンドラー(1888年― 1959年)が生み出したハードボイルド小説の主人公、私立探偵、フィリップ・マーロウ(Philip Marlowe)が、チャンドラーの最後の小説、Playback で言った有名な言葉。

ちなみに、これは女の
「あなたのようなしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」
に続くせりふである。

チャンドラーの小説は何回か映画化されており、フィリップ・マーロウは、ハンフリー・ボガードやロバート・ミチャムらが演じた。
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〈フィリップ・マーロウ〉シリーズ(発表順)
『大いなる眠り』(The Big Sreep 1939年)
『さらば愛しき女よ』(Farewell, My Lovery 1940年)
『高い窓』(The High Window 1942年)
『湖中の女』(The Lady In The Lake 1943年)
『かわいい女』(The Little Sister 1949年)
『ロング・グッドバイ(長いお別れ)』(The Long Goodbye 1953年)
『プレイバック』(Playback 1958年)

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2008年3月11日 (火)

棋士・羽生善治 「才能とは、努力を継続できる力だ。」

10代の頃から、その才気を発揮し、15歳、中学3年でプロになり、天才と呼ばれる羽生だが、25才という若さで7冠達成という頂点を極めた後、漠然とした不安に駆られ始める。 「この先どうなるのか。」「棋士としてどう生きるのか?」 

迷いと共に次第に戦績を下げ、30歳を過ぎると自信を持っていたひらめきや記憶力も衰えてきた。2年前には、タイトルは1冠にまで落ち込んだ。 
そんな或る日、見慣れていた筈のある光景に目が留まった。 若手棋士たちと対局するベテラン棋士の姿だった。
加藤一二三九段(当時64歳)、内藤國男九段(当時65歳)、有吉道夫九段(当時69歳)。 還暦を越えて尚、懸命に自分の将棋を極めようとしていた。 
羽生は、はっとなった。 「棋士は、只、勝つ為だけに、将棋をさすのではない。生涯をかけ自分の将棋を極める事にこそ、価値がある。」 天才と呼ばれた男が迷いの中で見つけた自分の道だった。

「情熱を持って続けていく事は当たり前の事だと思うけど、之が果てしなく難しいことなんですよね。・・・ 傍目にはベテランの人達はたんたんと続けているように見えるけど、20年、30年、40年という年月を見た時、当たり前の事が実は当たり前ではない、と感じるようになった。 結局、長い目で見た時は、同じペースで走り続けていく事が出来る事が一番、ある意味、才能なのかな。 むしろ、瞬間的な閃(ひらめ)きや煌(きら)めきは、大事な要素ではあるけれど、中核を成している訳ではないのではないかと、30ぐらいの時に感じるようになった。」

しかし、35歳の今でも悩みや迷いから開放される事はない。
「10代、20代の時は余計な事は考えないということはある。考える材料も無いし、考えないという事はある。 段々年齢が上がってくると色々な事を考えられるようになってくるから、そこに、迷いとか、躊躇(ためら)いとかが生じてしまうということがあるので、ぶれない気持ちと言うか、ぶれない心をどれだけ維持するかというのは凄(すご)い。 ええ、言うのは簡単なんですけど、実際、おこるのは、これは、ハードルが高いというか、困難な事なんですね・・・」

2008年2月26日 NHK総合テレビジョン 「プロフェッショナル・仕事の流儀」 より

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2008年3月 4日 (火)

「人生に必要なものは・・・」ーチャールズ・チャップリン

人生に必要なものは
希望と
勇気と
幾ばくかのお金(some money)だ。

チャールズ・チャップリン

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チャールズ・チャップリン
1889年4月16日― 1977年12月25日(88歳)
映画『独裁者』のモデルとなったアドルフ・ヒトラーと誕生年月が同じ1889年4月である(チャップリンの方が4日早い)。

ミュージック・ホールの芸人だった両親のもとに、ロンドンに生まれる。1歳の時に両親は離婚。その11年後、父チャールズ・チャップリンはアルコール中毒によって死去し、母ハンナ・ヒルも貧困からくる精神病にかかる。4歳違いの異父兄シドニーと、孤児院や貧民院を転々とする。チャーリー自身も、幼い頃から新聞やマーケットの売り子、ミュージック・ホールでパントマイム劇などを演じて一家の家計を支える。
その後、アメリカに渡り、喜劇役者として成功。喜劇王と呼ばれた。
1952年に、アメリカの赤狩りで国外に事実上の追放処分を受けた。
チャップリンが再びアメリカの地を踏むのは、同地を去って20年後の1972年、彼を守りきれなかったアメリカ映画界からの事実上の謝罪を意味するアカデミー賞特別名誉賞を手にしたときであった。
1975年には、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され“サー・チャールズ”となった。

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ガンディー(前列右から2人目)とチャップリン(前列左から2人目)1931年9月、ロンドンにて

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『キッド』のワンシーン

1930年代よりナチスの指導者且つ独裁者であったアドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に公開された『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判しているが、『独裁者』製作時のアメリカは第二次世界大戦に参戦しておらず、ファシズム色むき出しにして自国内における独裁を強めるだけでなく、ユダヤ人への弾圧の強化やチェコスロバキアやオーストリアの併合、更にイギリスやフランスなどの隣国へ軍事的脅威を与えながらイギリスの同盟国であるアメリカとも対決する姿勢を見せ始めていたヒトラーに対してさえ、「大恐慌を克服した英雄」、「共産主義の防波堤」として賞賛する者もいたほどで、ニューヨークにあったアメリカ・ナチス党から製作を止めるようクレームをつけられたこともある。  
このような風潮の中で、ヒトラーを痛烈に風刺する映画を製作したチャプリンの、自由を尊び個人の尊厳を愛する、人間に対する慧眼、考え方は驚くほかは無い。
『独裁者』でチャップリンは、初めて本格的なトーキーを完成させた。それは、最後にヒンケルに扮した理容師が6分間の演説をする為だった、と言われる。 この演説は、映画史に残る感動的なシーンになった。
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「兵士諸君、自由のために戦いなさい。民主主義の名のもとに私たちはその力を使いましょう」「人びとよ、失望してはならない。大衆は再び権力を取り戻し、自由は決して失われない」。 そして彼は訴える。「ハンナ、聞こえるかい」。恋人の洗濯娘ハンナ(チャップリンの当時の妻ポーレット・ゴダードが演じた)に訴えかける理容師。その言葉は、チャップリンの言葉そのものであった。
「ハンナ」とは、貧困のうちに精神病を病み亡くなったチャップリンの母親の名前でもある。

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 日本でこの映画が公開されたのは、1960年になってからだった。映画の完成時の1940年は、日本はドイツ・イタリアとのファシズム三国同盟を結んでいたから、公開などとんでもない時代だった。
 20年後の公開だったが、映画は圧倒的な人気で、東京・有楽座には一週間で6万人を越える観客が訪れ、37日連続して当時のお金で100万円以上の興業収益をあげ、過去最高の記録となった。

チャプリンは、音楽の譜面の読み書きはできなかったが、思いついたメロディをピアノで弾いたり、時にはチェロやヴァイオリンを奏でて(左利きだったので、特注品を愛用していた)口ずさみ、アレンジャーの手を借りながら写譜していた。指揮をする姿を記録した映像もいくつか残されている。
チャップリンが作曲した楽曲としては、“スマイル”(『モダン・タイムス』)や“テリーのテーマ”(『ライムライト』)が有名。プッチーニのアリアにも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、1954年に歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌によって大ヒットし、その後もマイケル・ジャクソンやエルヴィス・コステロらによって断続的にカヴァーされた。
1972年、20年ぶりにアメリカへ招かれ、アカデミー賞特別名誉賞(オスカー像)を得たときは、会場のゲスト全員でこの歌が歌われ、チャーリーの栄光と功績が讃えられた。
また、『モダン・タイムス』の劇中において彼が歌ったデタラメ語による“ティティーナ”は、ロサンゼルスのラッパー、J-Fiveによってサンプリングされ、ラップでも歌われた。同曲はトヨタ・istのCMソングとなり、大きな話題を呼んだ。

運転手(後にマネージャー)に日本人、高野虎市を採用し、家の使用人が一時期すべて日本人で占められていた。2番目の夫人であるリタ・グレイは、この様子を「まるで日本人の中で暮らしているかのよう」と評した。また、『サーカス』の製作中にはしばらくの間、牛原虚彦が高野の紹介で弟子入りしていた。

1932年(昭和7年)5月14日に初来日。その道中で五・一五事件に遭遇し(犬養毅との面会予定をキャンセルし、チャップリンは相撲を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかったが、標的として狙われていた。
1936年(昭和11年)2月に2度目の来日。淀川長治が神戸で面会している。
同年5月には、3番目の妻ポーレット・ゴダードとの新婚旅行も兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。また、京都にも足を運び、最高級旅館の柊家旅館に宿泊。名所旧跡を訪ね、西陣で絹のガウンを購入した。
戦後は1961年(昭和36年)にウーナ夫人、長女のジェラルディン、長男のマイケル・チャップリンとともに4度目の来日。高度成長下で変貌著しい東京の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て「古きよき日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。

手塚治虫は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」という質問に対して決まって次のように答えている。 「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれに全ての答えがある」

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代表作
1923年『巴里の女性』(監督のみ。主演=エドナ・パーヴァイアンス)
1925年『黄金狂時代』The Gold Rush
1928年『サーカス』The Circus
1931年『街の灯』City Lights
1936年『モダン・タイムス』Modern Times
1940年『独裁者』The Great Dictator
1947年『殺人狂時代』Monsieur Verdoux
1952年『ライムライト』Limelight
1957年『ニューヨークの王様』A King in New York
1967年『伯爵夫人』A Countess from Hong Kong (監督のみ。唯一のカラー作品。主演=ソフィア・ローレン、マーロン・ブランド)

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